2003年03月31日 産経新聞
【生命現象のなぞ解く「糖鎖」】
<最先端医療の現場19>
細胞の顔
細胞の表面にひげのように突き出た糖分子の連なり、「
糖鎖」が生命現象のなぞを解くカギであることが明らかになってきた。
糖のつき方が細胞の顔として個性を発揮しているだけでなく、免疫の病気やウイルス感染、さらにがんの転移など病気とも深くかかわっていた。糖鎖をターゲットに、その姿を変えて効果を高める製薬や治療の研究も活発だ。
(坂口至徳)
「シンデレラ」
糖鎖は、約十万種類あるたんぱく質の半数以上に結合している。重荷タンパク質で構成されている
細胞膜では、鎖の先を巻くの表面に出し、その性質や機能を示す顔の役割を果たす。たとえば、ABO式の血液型は血液
細胞の表面の
糖鎖の種類で判断できる。
ところが、
最近になってこの糖鎖が腸菌O157やコレラなど病原体の毒素が病気を発祥するきっかけになったり、がんの転移を誘導するなどしていることがわかり、病気発症の仕組みの解明や治療の手がかりになると注目されだした。
「シンデレラにかぼちゃの馬車が迎えに来たように、この数年でにわかに注目されはじめました」と大阪大学大学院医学系研究科の谷口直之教授は説明する。
糖鎖があまり省みられなかったのには訳があった。
人間の設計図であるヒトゲノム(全遺伝情報)には、タンパク質の作り方が遺伝子情報として刻み込まれている。これに対して
糖鎖は、タンパク質が出来上がったことに、その二次産物としてこそ(糖転移酵素)により付加される。このため遺伝子が直接指示している情報がほとんどなく、ゲノム解析でわかるタンパク質の研究が優先された。
しかし、
日本では早くから研究が進められていた。現在わかっている糖転移酵素の遺伝子の60%は日本の学者が解明しており、一躍、世界をリードする分野になった。
転移を抑える
糖鎖が働く仕組みを治療に役立てようと、谷口教授らが手がけた研究のひとつは皮膚がんの一種、悪性黒色腫(メラノーマ)の他の臓器への転移を抑制することだった。
がん
細胞が悪性化し、転移しやすくなると、悪玉の糖転移酵素(GnT−V)が異常なまでに活動に働きはじめ、
細胞の
糖鎖の特定の部分に枝のように
糖鎖を付け加える。谷口教授らはここに着目した。
マウスにあらかじめ善玉の糖転移酵素(GnT−III)の遺伝子を導入し、
細胞の
糖鎖に枝を張らせておくと、メラノーマの
細胞を注入しても、悪玉の酵素は枝を張ることができず、転移は起こらなかった。
「善玉の酵素は、
細胞を接着するE−カドヘリンという物質を
細胞表面に出し、
細胞がばらばらになって転移するのを防ぐ。一方、善玉の酵素は血管を新生したり、侵潤を助ける物質を分泌してがんを広げることも明らかになってきました」と谷口教授。
多様性を示す
このほか、
糖鎖やその転移酵素の異常が、アルツハイマー病や神経難病などの発症ともかかわっているとみられ、遺伝子情報をもとに行われるオーダーメード治療に加えて、糖鎖による診断・治療の可能性も出てきた。
「遺伝子にはっきりと刻まれず、環境因子などによって現れる原因不明の病気のなぞが
糖鎖の研究によってわかるかもしれない。
糖鎖はゲノムを越えた情報を持っている。生物の多様性の担い手でもあるのでしょう」と谷口教授。
学会長を務める日本糖質学会では、
糖鎖を軸にした新しい生物学を研究する「
糖鎖科学研究拠点・コンソーシアム構想」を提唱しており、「日本が
糖鎖の研究をリードしているだけに、
糖鎖の研究を軸にあらゆる分野の生物学と統合して研究できる拠点をつくりたい」と力説した。
〜 糖鎖 〜
ブドウ糖(グルコース)やがガラクトースなどの糖が2〜十数個、鎖のようにつながった物質。枝分かれするなど複雑な構造。
細胞内で生成されたタンパク質が、ゴルジ体という器官内で糖転移酵素により糖を付加され、
糖鎖が出来上がる。
糖鎖を持った糖タンパクは
細胞膜に埋まり、図のように
糖鎖のひげを
細胞表面に出す。
糖鎖は、タンパク質の構造を安定させるとともに
細胞の増殖・分化や免疫作用などで
細胞間の信号をやりとりするアンテナの役目もする。
治療だけでなく予防にも期待
病気の発症に大きくかかわっている
糖鎖をターゲットに治療薬づくりが進んでいる。
この冬に効果を発揮したインフルエンザの治療薬もそのひとつ。
インフルエンザウイルスの表面には二種類の突起(スパイク)があり、ひとつは
糖鎖に含まれるシアル酸という物質を切り離す酵素をもち、もうひとつは他の
細胞表面のシアル酸にくっつき侵入するきっかけをつくる。
この酵素は、ウイルスが感染して
細胞内に入り込み、増殖して外に出ようとする際、互いにくっつかないようにウイルス自身のシアル酸をはずしてしまう。
治療薬はこの酵素の働きを阻害することでウイルスを凝縮させて出られないようにして退治した。
糖鎖の作用で自滅に追い込むのだ。
静岡県立大学薬学部の鈴木康夫教授は、このウイルスの侵入と遊離の両方のメカニズムを阻害する人口化合物を合成。「動物実験の段階だが、治療だけでなく予防にもつながると思う」という。
治療薬研究の進展とともに、薬効を高める
糖鎖の重要性も再認識されている。
協和発酵の研究グループや米国の研究グループは、免疫のメカニズムのなかで、がん
細胞を異物とみなして殺すナチュラルキラー
細胞が交代と結合して働く際に、大阪大学大学院の谷口直之教授が解明した糖転移酵素によって合成される
糖鎖が重要な役割をはたすことに気づいた。それが、抗体タンパク質につく
糖鎖の構造を酵素で改変すれば、抗体の働きを二〇倍から五〇倍に増強することができるという画期的な発見につながった。
がんの抗体治療が世界的に注目されており、糖鎖改変技術は広く抗体治療の基盤を構築する研究として今後の展開が期待される。
さらに、ヒト型の
糖鎖をもった治療薬をつくらせる試みもある。
酵母特有の
糖鎖を作る酵素遺伝子を壊したうえ、遺伝子組み換えで酵母の遺伝子にヒト型
糖鎖をつくる遺伝子を導入手法で、産業技術総合研究所
糖鎖工学研究センターの地神芳文センター長は酵素の異常が原因で心臓の肥大などを起こす「ファブリー病」の治療薬酵素を作った。
地神センター長は「酵母にヒト型の酵素を作らせる基盤技術は確立したので、複雑な
糖鎖をもつ物質に進めていきたい」としている。